歴史墓一覧

貴田家墓群
貴田家墓群
貴田孫兵衛子孫(一族)の墓群
貴田孫兵衛は加藤家16将の一人に数えられ、怪力と瞬足を生かして朝鮮出兵で活躍
貴田角右衛門(孫兵衛二男)が豊前で細川忠興に禄高200石で召抱えられて以来、肥後入国後も貴田家は細川家に仕え江戸留守居役として500石を授かった

細川家

槇嶋家 白木家 田中家 野々村家
細川家重臣
禄高1000石
豊臣秀吉・秀頼に仕えたが大阪の陣後、豊前時代の細川忠興に仕え、近世期を通じて代々細川家に仕える
初代槇嶋昭光は将軍足利義昭の側近で、室町幕府末期から政治史において重要な位置にあった禅定寺第24世住職より第26世住職の先祖にあたる
写真タイトル 2細川家家臣
禄高300石
彈右衛門が細川光尚に召出され御鉄炮30丁頭、御小姓役小姓2番を務める
白木為直(10代目)の碑が禅定寺境内にあることで有名
菅原宗弘の次男が田中家初代の田中与左衛氏次は小倉の細川忠興に仕えた
禄高2000石   鉄砲頭、番頭を務める
2代左兵衛氏久入道宗伯以降(12代まで)子孫は禄高2000石から4500石  中小姓、小姓頭、大目附、城代などを務めた
菅原宗弘の長男田中久兵衛吉政は豊臣秀吉に仕え、従5位下、筑紫久留米32万石の城主
写真タイトル 4細川家家臣<br>
野々村三次郎は、時習館で文武を学び殊に武蔵流剣術、塩田流小具足、伯耆流居合、槍術の皆傅を受けた<br>
西南の役で熊本隊に参加、小学校教員や各地の戸長を歴任
志方家 藤村家 上田家
細川家家臣
初代から9代之剣謙まで禄高 150石から
300石
御使番、讀団右衛門触組、御目附を務め

山梨県令。肥後隈本藩士の黒瀬家の次男で
菅野家の養子になり上京
明治以後に藤村性に改め、大阪府判事や山梨
県令を歴任、明治19年初代山梨県知事となり、産業・工業・教育政策に取組み山梨県の近代化に貢献した。その後、愛知県知を2年間勤めた後、貴族院議員となり明29年に男爵の称号を授かった
細川家家臣
禄高200石
御番方九番組脇を務めた。
上田休兵衛(10代目)の碑が禅定寺にあることで有名
井上家 雲林院家 久野家 平野家
細川家家臣
禄高 300石
奉行職などを務めた
細川家家臣
禄高 500石
細川忠利に細川家の剣術指南役として仕えた
宮本武蔵と君前で校技して、佩刀を賞ったと墓碑に記入されている
細川家家臣
禄高 300石 御郡町奉行などを務めた
※久野家子孫より情報提供(肥後国史掲載なし)
細川家家臣
初代から9代まで禄高 1000石から5000石
奉行本役、中老、家老職などを務めた

※ 参考文献 肥後国史・他

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玉龍山 禅定寺
〒860-0046 熊本県熊本市中央区横手1丁目9番6号
TEL 096-353-1749
武田家 藤本家 藪家 木下家
細川家家臣
武田元直、武田元幸など一族の墓が
現存している

細川家家臣
禄高300石
使番、目附役、奉行副役、奉行、作事
頭、中小姓頭を務める

現在藤本家は子孫である石原家が管理
している
細川家家臣 先祖藪伊賀守は織田信長に仕え伊勢刻長島で討死。その子で初代藪内匠守正照は細川忠興(小倉)の客分で禄高12000石二代目図書正成以降(11代目まで)子孫は禄高2000石から3000石 天草城番、小姓頭、佐敷城番、中老職、家老職などを務めた
細川家家臣
初代木下三郎左衛門俊之は禄高3000石で御番頭を務めた
2代目木下三郎左衛門平馬以降(12代目まで)子孫は禄高2700石から3000石
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